2024年5月26日 鈴木ゆかりの地の探索会
鈴木ゆかりの地の探索会
長泉寺「鈴木正三墓碑」 「武蔵陵墓地」「八王子城跡」
八王子市 長泉寺「鈴木正三墓碑」をはじめ、付近の「武蔵陵墓地」「八王子城跡」を探索いたしました。
当日は晴天に恵まれ、13名の参加者の元、密度の濃い集いが行われました。

中央線高尾駅北口(京王線高尾駅に隣接)
社寺を思わせる風格ある駅舎は、大正天皇が崩御された際に大喪列車の始発駅として突貫工事で作られた「新宿御苑仮停車場」の建物を後に移設したものです。
- 鈴木正三墓碑のある玉鳳山 長泉寺 (臨済宗南禅寺派)
多摩御陵造営に伴い移動された正三坐像が安置され、寺東側丘上には正三の墓地があります。



墓地の入口。階段の途中に解説板があり、階段下にある石には、以下の文字が刻まれている。
(す)ゝきせうさん ひやう所
※( )内は欠損による欠字を補ったもの


2.武蔵陵墓地

昭和2年(1927)に大正天皇の陵所として選定され、現在は約46万㎡の陵墓地内に多摩陵(大正天皇)、多摩東陵(大正皇后)、武蔵野陵(昭和天皇)・武蔵野東陵(昭和皇后) が造立されています。
御陵総門の手前右側の小高い丘(庵の山)に、かつて鈴木正三の堅叔庵と墓がありました。



御陵正門の前を過ぎて突き当たりを右に曲がリフェンス角の内側に坂道の名残があります。これが「庵の山」入り口で、登ると鈴木正三(石平道人)と弟子の恵中が修行生活を過ごした堅叔庵がありました。全員で堅叔庵跡に向かって遙拝いたしました。



3. 八王子城跡
武蔵陵墓地から約4キロ強にあり、大手門付近の石垣・曳橋・御主殿跡など見学しました。
八王子城は関東の大勢力北条家の一門、氏照が築いたもので、本拠小田原城に次ぐ重要な城でした。
秀吉の小田原攻めの際、前田利家・上杉景勝らの軍勢に攻められ圧倒的不利な状況で抵抗を続け、秀吉の「時には皆殺しも必要」という方針から悲劇的な落城を迎えるのです。悲しい最期を迎えた姫君ら女子の伝説も伝わっています。
城跡に櫓や天守閣などは見られませんが、年代的には北条氏が築いた最後の城郭となり、東京都内の城郭跡としては最古の石垣が現存します。今回は居館(御守殿)跡を訪ねました。


曳橋を渡り御主殿跡へ


御主殿門

ガイドの方に丁寧な解説をいただきました。

建物群の礎石。一番大きい建物が政務を行う主殿、もう1つが来客を饗応する会所。

八王子城落城の際、御主殿にいた子女、将兵たちが自刃し身を投じました。

鈴木正三は天正7年(1579)三河に生まれました。正三は徳川家康の家来で、関ケ原の合戦、大坂冬、夏の陣の合戦で軍功を立てましたが、秀忠の時代、42歳で出家をしてしまいました。当時旗本の出家は禁じられていましたが、将軍秀忠の温情で、隠居扱いとなり家は残りました。
曹洞宗の禅僧として各地で修行を重ね、元和9年(1623)ごろ三河に戻り、石平山恩真寺を創建します。この時から石平道人(せきへいどうにん)と呼ばれるようになりました。一宗一派に属さず「南無大強精進勇猛仏」の信仰を唱え、仁王禅を提唱しました。
天草島原の乱の後、石高半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。天草の人々はその遺徳を偲び、その霊は神社に祀られています。代官として赴任した弟の重成たちを助け、荒廃した人心の復興のため出向いています。乱で荒廃した天草に3年間滞在し、寺や神社の復興に尽力しました。
重成は幕府に農民の一揆の原因となった高い租税半減を幕府に嘆願して、切腹して果てました。正三の子で重成の養子となった2代目代官の重辰(しげとき)も同じ訴えを続け、ついに重成公の七回忌に松平信綱と阿部忠秋の連名で石高半減の通知が下されました。天草の東向寺領の一角には重成公の遺髪が埋められ、遺髪塚が築かれました。根本となった遺髪塚(本渡市本町)には重成公祀る鈴木神社が建立され、後に兄正三公、養子重辰公も祀られました。天草を救った代官として鈴木神社(天草市本町)をはじめ天草の三十余カ所に「鈴木さま」としてまつられています。
各地を行脚し八王子に来られたのは亡くなる少し前70歳前後だったようですが、八王子長房村中郷(現在の武蔵野御陵の地)に堅淑庵という小さな寺を開山して、弟子の恵中と活動をしていました。
なぜ、八王子で伝道活動をしたのか定かではありませんが、八王子落城と言う悲惨な経験を通して、それでも懸命に、復興に力を尽くした八王子の人々と天草の復興が重なっていたのかもしれません。
正三が活躍した江戸初期は、江戸幕府を確立するうえで変革の時代でした。当時の八王子は、大久保長安の新しい町づくりが終わり、幕府の力が強化され、代官制度も変わり、千人同心の活動も活発化している時代でした。
平和な世の中が出来つつあった時代に、生と死を身近に見てきた戦国武士の正三は、戦いのない時代に、人がどう生きたら真の平和な世の中になるのか正三自身がたどり着いた境地を人々に伝道たかったのでしょう。武士道精神に基づく独自の禅を起こす一方、世俗生活と信仰生活との一体を教えました。
正三は明歴元年(1655)6月77歳の時、江戸神田駿河台の屋敷で亡くなりました。禅宗の僧侶として執筆と布教活動に務めた一生でした。火葬されたその骨は白雪の如く輝き、八王子にも分骨されたと伝わっています
現在の墓所は、昭和2年多摩御陵造営にともない、「庵の山」(御陵総門の手前右側の小高い丘)からこの地に改葬されたものです。
現在長房町の長泉寺境内に正三と弟子の恵中の墓所があり、八王子市の史跡文化財に指定されています。鈴木正三ではなく、石平道人として記載されています。